昭和51年03月05日 朝の御理解



 御理解 第42節
 「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」

 これほど信心するのにと、いうならこれほどの信心をして何が分かっておるか。これほどの信心をして、何をどう行じておるかと言う事を、分からなければいけないと思うですね。ただ一生懸命にお参りをしよります。もう何十年間の信心でございますと。というだけで私はこれほどとはいえないと思う。これほどの信心と。ね、ならどれほどの信心が分かって、どれほどのその信心を、なら行じておるかと言う事に、なりますと成程おかげが受けられんはずだと言う事が分かります。ね、
 だからそこからです、そこからなら只一心に信心をしていけばと仰る、そのなら、ね、一心に信心をしていくと言う事はね、今まで分かっていなかったこと。それを本気で行の上に現して行くと言う事。長年お参りをしておっても、本当に御理解の有り難い事は分かっておっても、その御理解を本気で行じようとも、その御教えをそんなら、尚深めていこうともしてない人が沢山あります。
 私共の娘婿であります、椛目の池尻ですけれども、先日から本当にこれほどの御理解を頂いておりながら参る事、拝む事は一生懸命しとったけれども、本当に教えを頂くというを、どうしてしていなかっただろうかと、一週間ばっかり前の話でしたけども。と思いますとこういう訳です。夕べの松栄会じゃったか、まぁ遅うまででもこの頃、もう高芝さんの席定席の所、ここに来て御理解頂くんです何時もね。本当にもう今までどうしよったじゃろうかという訳です。そこに初めて開眼。
 本当に話を聞いて助かるという、今日はお道の信心を本当に、話を本気で聞く耳を持たなかった、聞く事を、別にそれがどうと言う事でもないのに、矢張り長年の信心はしておるけれども、本気で教えを頂こうと言う様な姿勢を持ってなかった。そこで初めてこれほど信心するのにと言う事はなくなったわけです。ね。もう本当に限りなく足りない事であったと言う事意外にはないのです。
 そこからいうなら新たな信心が出来るのがです、私は一心にね、これは信心が足りんのだと思うてそこから、一心の信心をしていけば、ね、そこからおかげが受けられるというです。ね。だからただなら今までのお参りが足りなかった。今まで一遍参りよったけん二遍参ろうと。今まで大祓い十巻あげよったけん、二十巻あげようと言った様な事ではないです。そこから一心の信心をしていくと言う事はそう言う事じゃない。ね。
 昨日私がおそう出て参りましたら、まだ松栄会の方達が7、8人残って、そこでまだ信心話に、いわば花が咲いておる所で、私もだから入っていってまぁ話を聞いたり、させてもらったりした事でしたけれども。その若先生が申しております。御理解に「神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き、身代もでき一年勝り、代勝りのおかげを受ける事が出来る」とこういう。ね、又は「神のおかげを知らぬから、互い違いになる」と、御理解にあるがです、その神の大恩を知るとイウコト。ね、
 私共の信心のそのまぁ眼目がです、ね、おかげをおかげと知る事。中々分かってない、大変難しい事だと思う。お話を聞いて神様の大恩を分かっておるようであるけれども、分かってない証拠に一年勝り、代勝りのおかげになっていないと言う事。教祖様の御教えの中に嘘があるとは思われない。ね、例えば甘木の初代なんかは、そういう意味での第一人者でおありになったと思うですね。
 神の大恩をもう誰よりも深く広く、分かっておいでられた。ね、そこにいうなら枯葉枯枝、一枚一本でもお粗末にする事はできなさらなかった。それをおし頂く心でおかげ。神の大恩が分かったら、そうしなければおられなくなってくるんです。ね、いうならば神恩報謝の信心生活が、ね、出来てくるわけです神の大恩を、ね。だからこれほど信心するのに、ならあんたどのくらい神の大恩が分かっとるのち、言われたらですね、もういっちょん分かっとらん。
 話を聞いて、ね、例えば一すくいの水でも一粒のお米でも、ね、例えば形には見えないけれども、この空気一吸いでも、皆神様の御恩恵によるものだと。そん位な事は分かっておる。そんならそれにどう実感として応えておるかと言う事。神の大恩が成程神の大恩が分かれば、ね、いよいよ子孫も続き身代も出来る、人間も出来けてくる。ね、神のおかげを知らんから
  (A面終わり)(B面)
 これほど信心するのに、どうしてこの様な事が起きてくるだろう、その起きてくるその事が、おかげであると分かる所まで、信心をしとかにゃいけんと言う事。ね。昨日からあのそこの、中村徹美君の今度の事故の事を、昨日の朝お届けを聞いて、また私は一段と神様のご演出に驚いた。演出だけではない、それこそ舞台装置までしてあるの、というて言うた事でした。とにかく5メートルもある、谷間の様な所に落ちて、あの自動車が真っ逆さまにこう落ちた。
 それが向こういっとりゃ岩があったりするけん、いとっらなかった。それをあの這い出て来てその自動車を、はしご変わりに登ってこう立った所がまだ上が、こりゃとてもどんこん上がられんと思うた。そのまま自動車がこうなっとると上に、そう思うたまま気が遠くなってしまった。ね、勿論生神金光大神様、親先生、生神金光大神様、親先生を繰り返し繰り返し唱えておった事は覚えてる。
 そしたらね「この幣切り境に」という声が聞こえてきたげな。私はもう本当驚いてしもうた。人間が一心の時はね。まぁこれは大変な意味がある事だと思いますけれども、ね、こういう時、ならこういう氏子はもう例えば、死んで当り前のような事故なんですいうならば。スピード出しとって、スピードでそのまま中へ飛び込んでいったんですからね。勿論自動車はもうめちゃくちゃというのに、その自分はいうならもう足はだめだろうと言う風にいよったけれども。
 実際はちょっとした傷だけで病院にいったけども、直ぐ帰らせてもらえるくらいの、おかげを頂いておった。その「この幣切り境に」と頂いたから、また元気が出てけれども、立ちあがってから、そのがけをどげな風にして登ったか覚えないそうです。それで道にあの這い上がった所が、直ぐ側にそのもう全然山の中のような道ですから、その家が全然ないわけです。所がそこにはぼんやりその、まぁ明かりが見える家があるから、そこまでまぁ這うようにして、行って戸を叩いたらもう直ぐあの出て来て下さった。
 そして戸が開かると同じに、庭にパタッと倒れたのでまた、意識があの遠くなった。それでそこの家の方達がびっくりして、はよ医者に連れていかじゃこて、というてそのいいよるとが又かすかに聞こえたけん、いいえ医者よりも、合楽の金光様にはよ電話をかけてくださいという事だったらしいです。ね、信心しておるのにどうしてこう言う事が起こるであろうかと。それは反省をすればねもう例えば前の日、必ず勤めに出る時に昼頃から勤めて夜中あの、夜帰ってくるわけですけれども。
 もうあのスピード違反が何回も重なって、今度一回したらもう免許証は取り上げられると言う所までいっとった。だからね徹美さんもう十分、二十分福岡からここまで帰ってくるのに、時間が遅い様な事は問題じゃないて。だからもうとにかくルールだけは守らにゃ出来ん、そしてそれば修行と思うたらええて、あんたんごと年中事故を起すと、もうそこん所ば、おかげ頂かにゃでけんよというて行ったばっかりで、またやってるわけですからね。いうならばこれほど信心するのにというても。
 これほど教えを守っていないと言う事になるわけです。ね、けれども又どうしてこのような事が起きてくるであろうかというのではなくてです、ね、そう言う事が起こったおかげでもしなら、この幣切り境にそれこそ死んだと思うて、欲を放しての信心が出来るようになったら素晴らしい事です。いわゆる信心して、ね、変わった事が起きてきたらおかげと心得てと仰るのはそのことです。ね、信心しておって、変わった事が起こってきたら、ね、それは問題はもう色々ありましょう。ね。
 けれども変わった事が起きて来たら、おかげと心得て信心せよと。ね、だからそういう場合に、おかげと心得れる所まで、信心を矢張り進めておかなければいけない。所謂変わった事が、どうしてこの様な事が起きてくるだろうかと言う様な、どうしてと言う様な事柄がです、ね、止めてしまえばもうそれでおしまい。またそう思うたら信心は止まっておる。これはまだ信心が足りんのだと思うて、一心の信心をしていけばと言う所が、これからは親先生が言われる事をきかにゃいけんとか。
 今まではどうして長年参っておったけれども、教えは身に付いていなかっただろうか、参ること拝む事は一心に参ったけれども、教えを頂いて教えがどうしてこういう頂き方であっただろうかと言う様な生き方が、私は一心に信心をしていけば、そういう信心をすれば、そこからおかげが受けられるのです。ただ信心を続ける。今まで一遍参りよったとが二遍参ると言った様な事ではないのです。
 先日福岡の高橋さんが、あれだけの百何十人からの従業員がおります、お店も十軒からの支店があるのですから、もう何時も人間関係でそういわゆる悩む種なんです。ただその、しかもなんかねまぁ陰謀というと、まぁ大げさですけれどもそれこそ陰謀企むごたる支店長もおるわけです。ね、もうそしてあっちよかごとこっちよかごと言うて、自分の顔だけを作ろうとするような人もおるわけです。
 もうそれこそ皆さんもご承知のように、まぁ一から所謂昨日なんかの場合は、時計が、この頃止まるごとなったからどっかね、何何という時計屋何処ので修繕をしたら良かろうか、もう買え直したがよかじゃろうかと言う事までお伺いされるんです。もう神様もう本当に、そういう生き方の方なんです。ですからそういう人間関係のような事でも勿論、お届けが有りますけれども、まぁお繰り合わせ頂かにゃ出来んと言う訳です。
 所が私そのお届けさせて貰いよりましたら、こんなに大きなろうそくですね。大きなろうそくに、昔あのぶらり提灯というのがありましたよね。こうちょっと店で十銭ぐらいで買えれる十銭、八銭ぐらいだったでしょうかね。こうぶらり提灯そのぶらり提灯にそんな大きなろうそくが立っておるから、こうあの縮むようになってますもんね、あれはこうですからその風が当たってから、もうその明かりがゆらゆらしてるわけです。もう消やせんじゃろうかと言う様にこう、ゆらゆらそのしておる所を頂きました。
 それかというてなら、提灯を上にこう引き揚げたらです、小さい提灯ですから、提灯が焼けてしまうと言う事なんです。こりゃあの高橋さん、あんたが大きゅうならにゃできないよと。まちっとこれが大きゅうならなきゃ、大きゅうなってこれが引きあげたなら、こういう大きな提灯じゃけん、それこそ大変あか明々とした、おかげにもなることであろうとこういうのです。ね、まぁ高橋さんに言われると、これほどのまぁあの人はそれが言えると思いよる。これほどの信心しとっですからね。
 福岡からあんたもう長い間、あそれこそ朝参りを欠かさないというのですから。まぁ御用の意味でも、まぁ合楽でおかげの頂き頭でしょう。ね、所謂これ程の信心しよるのにどうしてこういう、何時もいつまでも人間関係で悩まにゃならんだろうかと、例えばいうても良い所なんです。心の中にあるかも分かりませんね。やっぱこれ程信心するのに、どうしてこげなこと次々と起きてくるだろうかというのです。
 そこで神様はなら、何時もの事ですけれども、もっと大きゅうなれ、もっと大きゅうなれ、色んな、いうならば社長につげ口をするのがおるわけです。そすともうそれをもう本当に、まともに受けてから腹が立つわけですね。俺の前であんなに、猫かぶっとったつばいな、という風に分かってくるわけです。けれどもその猫かぶっとるとがおろうが、陰謀を企んでおるとがおろうがね、神様のおかげの中にある。親先生日々お取次ぎを頂いてからの、お取次ぎの働きの中にあることだから。
 いいよかよかというとれる位な、高橋さんにならねばいけないよというわけなんです。ね、もう本当にこりゃ私から見ましても、あれほどの信心が出来ておるわけです。ね。けれどもなら今日の御理解を頂くとっさい。ね、私どんがみてもあれほどの信心が出来るのにと思う位だけれども、本人自身としてもですこれほどの信心が出来なるとに、どういうわけですかと言う様な意味の事やらは、お届けできないはずです。
 もういよいよ私が、より大きくなる以外にありませんというて、お届けをすればいいわけです。ね、こんな問題がまたややこしい問題、こう言う又言う様な問題。ね、ただおかげを頂かせて下さいというのは、そこにまだ不平があり不足がある。これほど信心するのにというものが、あんにあるわけです。ね。そこでですこういう問題が起こりました。こう言う事になりましたが、これはいよいよもって私に神様が大きゅうなれというてござるのですから、どうぞ大きゅうならせて下さいというのならば、願いとそのあれが、つが目があうでしょうが。ね、
 こういう問題が起きてというお届けは、もう出来たわけです。だからそういう問題を通して、いわゆるそれこそベターの信心です。よりもっと本当な信心。いやよりもっと私が大きゅうならせて頂くおかげを、そのより大きゅうならせて頂くためには、どういう信心をさせて頂いたらよかろうかと言う事になるのです。私はあんたの事をね、あの今日お取次ぎさせてもらいよったら、というてあの話た事でした。一日のお月次祭に、どうして喜びが湧かんのだろうかと皆がいう。
 信心しておかげを頂いて、有り難いという心の花が咲くけれども、もうその花が散ったら、後はもう寂しゅうなってくる。花というものはずっと咲き続けなきゃいけない。それはどういうわけかというと、堅いつぼみを粗末にするからじゃとと言う事。もうこげな硬いつぼみはいらんちゅうって、つみ切ってしまうからだと。もういうならば硬いつぼみ、二部咲き、三部咲き、五部咲き、八部咲きという風に。
 ずっと花がそのあればです、満開の花が散った時には、もう次の花が咲くと言う様にです、心の信心の喜びを絶やさないと思うたら、つぼみを大切にしなければいけないと言う事です。ならつぼみとはどう言う事かというとです、いうならばいやな問題。ね、腹の立つ様な事。様々、いうならば普通肉眼でいうならば、いやなこと日常には色々ありますわい。ね、それをですいわばいうなら、これが喜びの花になるのだと思うて、それを大事にしていくとです。
 喜びの花はもう、次から次と絶え間なく咲き続ける事が出来るんだと。昨日あんたんことの店ばお願い、事をお願しよったらね、その固いつぼみを大事にせよと言う事を頂いてこりゃ昨日頂いて。あんあんた覚えとろうもん、夕べの月次祭の御理解だからというたら、それば聞きよったばってん覚えとらん。所がテープに入れとるけんもう一遍聞きましょうとこう言う訳です。ね、一番大事な所を聞いとらん。夕べはもうちっと眠かったですからち。さぁねむうもあろうと思いますよね。
 けどもまた明くる日、そのそういうつぼみの、つぼみを粗末にするかと言う様に、そのつぼみを愈々大切にさせて頂く事の為には、愈々大きゅうならなければいけないと言う事。ね、このいうならぶらり提灯が、大きなこんな大きな提灯がありますよね。こんな大きなろうそくですから、どんな大きな提灯でもその明るくなるような。けれども小さい提灯ではこれを引き揚げると、それまで焼けてしまう結果になる。ね、
 だからそういう素晴らしいろうそくの光りを頂くだけの信心が、あれほどの信心によって頂けたわけです。こういういうならば大きなろうそくならばです、なら九州中にあっちこっち支店のある、何処にでもこれが光り輝くようになるだろう、とこういうわけなんです。先日から日田の綾部さんが、あの体が悪くて昨日一昨日でしたか、病院に行かれました。まぁ大変な苦しみだったら、丁度寒修行中でしたから。
 もうとにかく大変なそれこそ七転八倒の苦しみで、子供さん達が直ぐ隣にお医者がありますから、そこでまぁ一時押さえの、まぁ注射をされて何日かしとったけれども、これは自分の所じゃいけんから、専門の医者に見せてくれというので、専門の医者に見せられた。所が専門の医者も矢張りこれは、久留米の医大に行ってもらわにゃと言う事で、まぁ手続きそれを紹介もして頂いて、まぁいかれる事になった。
 丁度この先月の14日が、日田のいわゆる大分支部の共励会です。その時にそのある方が綾部さんのことお届けされたら、この丁度120人目の一番最後になった。しかも今日は大分支部の共励会というのに、私がそれこそ、まっひやっとしたわけです。それから段々お願をさせて頂いておって、あのあれは月次祭にお話しましたでしょうかね。あの正月のお餅のような、一重ねの上にだいだいが乗っておって。
 そのだいだいが今にも落ちそうにあるという、その三千万の保証人に立つ、そのことのお届けがあった時に、に頂いたのは、綾部さんのことだったんです。所がね私はその後においてから、もうまたお願いさせて貰いよったら、それと同じものをまた頂くんです。ね、その時には私が頂くのは、正月のお鏡さんというよりも、いうならばあの霊祭に使う、その白い餅を一重ね頂くわけです。そして昨日一昨日愈々、病院に行かれるというので、家族の方達みんな送られて、あちらにおいでられた。
 だからその日は、途中でよってお届けしていくだろうとこう思うておったのに、そのお届けがなかったから1日伸びたばいなとこう思った。そしたら明くる朝高芝さん達参って来て、昨日綾部は病院に行きましたと。あらなら一家きよらんじゃった。それが時間がなかったから。そんなら帰りに息子やら娘やらいっとるけん、帰りにちょっとお届けぐらいしていきゃよかとに、まぁそういうことが前前からずっと、こう頂いておるもんですから、私はもう神経がそこに、非常にこの不安であった。
 それで朝高芝さん達が夫婦でお届けされる時に、私がどうして参ってこんだろうかとか、そんどうこうとはいわんけれども、参って来いともいわなかったけれども、私が矢張り顔色があんまり良くなかったでしょう。高芝さんが直ぐそれを(すいじょ?)して直ぐ綾部ん所に行かれて。今日あんたんことお届けしたら、親先生がいうならば機嫌の悪い顔をしておられたよと。というので綾部さんもそのまま、抜け出してお礼に出て見えられた。私はもうあれは、何かでしかたね。
 3月3日のお節句のお神酒を頂いてから、あの晩酌がちょっと過ぎたもんですから、もう寝ておる所へ、あの高芝さんと2人で部屋にやって見えた。寝ながらあのお取次ぎさせて頂いたらね、その今まで白の鏡餅を頂きよったのがね、上んとが赤になる所を頂いた。これで私も何かお取次ぎ、お取次ぎさせて頂くと言う事は、実に微妙で本当におかげの頂けるなんかきっかけを皆さんが作って下さらんと、とてもお取次ぎがしにくいんです。いわゆる、こっちが不信心である場合。
 特に命にかかわると言った様な事なんか、取り分けそうなんです。はぁ矢張り病院に入院中であるのにも拘らず、しかもその日は断食をしてあったそうです。医者の方で( ? )なさるので。だからそういう体のきつい中に、そのいわゆる熱情をもって、あのお参りをして見えたと言う事がです。いうなら鏡餅が白の鏡餅が一つが赤、紅白の鏡餅という事になったら元気がでる。
 はぁこれで愈々安心だと私は思うて、そのままもうほんならこのままご無礼しますよ、というて起きもせずに、帰られた私はそのまま寝とった。そしたら直ぐ又頂く事がね、あの甘太郎のいっぱい入ったお餅があるでしょうが、久留米の。あれを頂きますもん。そして、その甘いと言う事を頂くんです。ね、例えばお鏡餅が白うなった。白いとが赤になったから、もうこれで安心と思う事がいけないんだと。そういう考え方は甘い。教えを頂いたら、その本当に赤い熱情をかけなきゃいけないんだと。
 かかった時かけなければ綾部さんもかけるなら、私もかけにゃいけないんだと。そこから又その寝とるだんじゃないと思うて、直ぐ起きてからこちらへ来ましたら又、私でなからにゃならん人がずらりそのお届けを持っとりました。夜の御祈念でしたからもう。ね、そしてここに座らせて頂いたら頂くことがですね、これで持ち直したと頂いた餅が直ったと。ね、お餅が次々と白になったり赤になったり。あんこ餅になったり又私がここに座ってからです、今まぁちょっとした熱いわゆる餅餅直し餅が直った。ね、
 それからときな又是で油断しちゃならんと思うて、まぁお願いさせて頂いておる訳ですけれどもね。これ程信心するのにと言う様な事なんかはとても、言えないと言う事が分かります。ね、本当に足りないばかりの私であると言う事をね、分かると言う事と同時にです、ならこれ程信心するのに、どうしてこう言う事がと言う時には、愈々高橋さんじゃないけれども、さぁもっと大きゅうなれ大きゅうなれというてござる時と思うて。はこれこそつぼみだからこのつぼみこそ大事にしなければならんと思うて、ね、
 又本当に今までは教えをね、聞きよったばってん頂いてはいなかった。聞いておるだけでだった。自分のものにしようという精進もしていなかった。是は本気で一つ御理解を頂くならばほんの親先生の前に座って、いっちょ本気で頂くぞという気にならせて頂いての信心こそが是からの信心であります。ね、是はこれ程のこれ程の信心をするのに、どうしてこの様な事が起きてきただろうかと思や、止まっておるけれども是はまだ信心が足りんからだというのは。只一遍参れば二遍にすると言った様な事ではなくて、ね、
 さぁ大きゅうなれさぁつぼみを大事にせよ。さぁ本気で教えを頂いて教えを行じなければと言う様な信心をさせて頂くうちにです、愈々神のおかげがおかげと分かってくる。徹美君じゃないけれどもです、無事であると言う事も有難いけれども、飛び込んだ事によってです、ね「この幣切り境に」と言った様な、大変な事を頂かせて貰おうて、是からの信心がそれから大事にされる。してみるとその取り組んだ事はおかげであったと言う事になる。ね、より大きゅうなれよと、愈々蕾を大事にしていけよと。
 愈々神様からね、おかげ頂くよという、言われたからというて安心しちゃならん。腰かけちゃならん。そこから一段と信心をして行くと言う事は、そう言う事だと思うです。ね、はぁこれで安心と言う事はいけないちゅう。ね、それじゃ神様が甘い甘いとこういうておられる。ね、そこをは神様がおかげ下さるならば、本気でいっちょ頂かにゃという姿勢を作る時に、所謂それが死に繋がるほどしの事であっても、餅直しのおかげになってくわけです。ね、そこからおかげが頂かれると言う事は、そう言う事だと思います。
   どうぞ。